東大寺の大仏殿が昔焼け落ちた事をご存知ですか?

奈良を巡る「大人の遠足」を期待されているので、そろそろ企画したい。
興味ある方はメッセージ下さいm(_ _)m


東大寺金堂・大仏殿といえば、世界最大の木造建築。
 
747年に起工し、わずか5年で大仏開眼供養会が営まれた。
 
世界最大の木造建築物とはいえ、当時の金堂は間口が今より1.5倍も大きかった。
 
この金堂・・・実は苦難が連続した。
 
 
 
1180年、平清盛の五男、重衡(しげひら)は南都と対立。
 
そして出兵した。
 
重衡は民家にも容赦なく火をつけ、辺りは猛火に包まれた。
 
僧兵だけではなく、一般の女子供まであぶりだされ、東大寺や興福寺に逃げ込んだ。
 
金堂には2000人以上の者が逃げ込んだが、ほとんどが犠牲になった。
 
大仏は手が折れ、頭は焼け落ち、蓮華座と下半身の一部を除いてほとんどが溶解した。
 
翌年から重源(ちょうげん)により急ピッチで再建が進められた。
 
 
 
時は流れ、1567年松永久秀と三好三人衆が東大寺で戦闘を始めた。
 
三好勢は大仏殿に陣していたが、松永勢はそこへ火を放った。
 
大仏の頭は焼け落ち、右手は溶解した。そして、重源が再建した伽藍もほとんどが消失した。
 
今回は戦国の世のため、再建がなかなかならなかった。
 
なんとそれから、大仏は100年もの間そのまま放置された。
 
いつかは再興をと願っていた、公慶上人が再建に乗り出した。
 
平城京、平安京と続く都の造営、寺院の建立により、近畿には大きな材木は全く無くなっていた。
 
材木を探し求めて、見つけてきたのはなんと宮崎県であった。
 
今の時代なら電話などの通信手段、船や電車などの輸送手段が発達しているが、当時はそんなものは全くない時代。
 
移動するにも歩くしかない。捜し求めて宮崎まで歩き、見つけたとしても電話で連絡するわけでもなく、また歩いて見つかったと報告にやってくる。そしてまた宮崎まで向かいそれらを運んでくる。気が遠くなる作業である。
 
昔の人は本当にスゴイとしか言いようがない。
 
実際に足を運んで金堂を見てみると良い。
 
本当にスゴイ!
 
昔はこの金堂の前に八重の塔が左右に建っていたのである。
 
それを想像するとヤバイ!
 
金堂内に入ると大仏に圧倒される。
 
そして私は、この場でたくさんの犠牲があったのだと神妙な気持ちになる。
 
 
 
1300年もの間人々のたくさんの想いが向けられたのである。
 
それは時に暴力であったり、あるいは直向きな想いであったりする。
 
そのことを思うと日本人としての魂が激しく揺さぶられるのである。
 

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