東大寺で買った洒落たTシャツ!漢字が気になったのか、ユダヤ人が意味を聞いてきたので、仏教の…と言うと興味を失った。
東大寺で買ったTシャツです。
「唯心」と書いてあります。
東大寺は華厳経です。
仏教の中でも大乗仏教に属し、大乗仏教の教えに唯識論というのがあります。
この唯識論は難解ではありますが、私の心の拠り所であり、私の治療においても核となる考え方です。
wikipedia抜粋
大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境(外界の物事は識によって変えられるものである)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ、後述)が存在するからであると唯識では考える。
なにやら難しいが、あるのはただ認識だけだという考えである。
しかし、究極的には認識さえも無いという。
昨日買った本に以下のような短歌があった。
手を打てば鯉は餌と聞き鳥は逃げ女中は茶と聞く猿沢池
手を打ったという現象があっただけである。
しかし、その現象に立場が違えばそれぞれ違う意味づけをするのである。
つまり現象は主観的なもので客観的なものではない。
絶対的な意味や真理はないということである。
個々の認識で好きなように意味を持たせる事ができるなら、こんなに楽なことはない。
腰痛を感じた人がいる。
ある人は、ちょっと無理をしすぎたと考え、少し身体を休ませようとするし、また別の人は運動不足だと考え積極的に運動をする人もいる。
悪くなるんじゃないかと心配する人もいるし、これくらいと言って別に意に介さない人もいる。
腰痛という現象一つとってみても、認識しだいで意味合いがずいぶん変わってくる。
つまり腰痛というものに本質・真理は存在しないのである。
意味を見出しているのは個々人の識である。
ちなみに唯識は悟っていない人間の側から、唯心というのは仏の側からの言葉である。
腰痛があっても気楽に受け止める心構えがあれば大丈夫。
すべては結局は「空」なのだから。
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